せっかく和平ムードだった中東だが(本当にそうか?)、にわかに雲行きが怪しくなってきている。
元はといえばイギリス(大英帝国)が蒔いた種だという意見もあるが、そもそもこの地域はイスラム教・ユダヤ教・キリスト教の聖地が重なり合い、極めて政治的・宗教的に複雑な様相を呈している。
宗教的対立で殺しあうというのは日本人にはあまりピンとこないかもしれないが(日本史上でも異教同士で殺し合ったのは島原の乱くらいだろうか)、当人たちにとってはいたって真剣な問題である。
風呂に入っているとき、こんなことを考えていたら、ある一つの説が思い浮かんだ。
超越的な神と、祀られる神があり、両者は根本的に異なるものである。世界宗教たりえるのは前者であるが、日本古来の信仰形態は後者であり、それゆえ日本人は無宗教的といわれるのではないか。
超越的な神とは、人類を含むこの世界を、メタ的な視点から俯瞰できる神のことである。
このタイプの神の前では、人の命など紙屑に等しい。神は自由に世界を制御し、必要とあらば世界を滅ぼすことも可能である。
ゆえに、この神の前では人間はみな平等であり、神に対して人間が干渉することはできない。神は信徒に対して行動規範を強制し(これは、神が超越性をもっているからこそ成立する)、信徒はそれに従い行動すれば救われると信じる。ここに、人権思想などの萌芽をみることができる。
また、超越的な神の信者にとって異教徒は「救われぬもの」であり、ここに異教徒へ対する暴力行使の正当性が現れる。
対して、祀られる神とはなにか。それは、祀る必要がある神である。祀るとは、神の機嫌を取ることである。つまり、祀られる神とは、気分屋であり、その気分によって人間の益とも害ともなる神である。
このタイプの神は、すべての人間に平等ではない。自分を祀るものに対して恩恵を与え、時には呪術的行為を通して、その祀る人間の敵に攻撃を与えることも考えられた。
原始宗教では、ほぼすべての信仰の形態がこの形態であったであろう。ひとびとは、大自然の脅威に神格を見出し、祭祀を行い、呪術をうみだした。それは容易に祖霊信仰とも同一化したはずである。
では、祀られる神に遅れて生じた超越的な神が、現在世界をほぼ席巻しているのはなぜか。
それは、統治に都合が良いという一点に集約できよう。
近代国家は、ローマ教皇という宗教的権威からの脱却過程によってその姿をあらわしたが(西洋では、15世紀から1648年のヴェストファーレン条約までの歴史に、その過程をみることができる)、それは皮肉にも、宗教と国家の同一化という側面をもたらした。17世紀にイングランドからピューリタンが北米大陸に移住したりしたのは、その最たる現象である。またドイツ三十年戦争にはじまり、七年戦争をもっていちおうの終結をみる動乱の時代を考えるとき、プロテスタントとカトリックという宗教的対立がその根底にあったことは間違いないだろう。
現代でも中東の対立は、国家の姿を借りた宗教同士の対立といっても過言ではない。
では、日本がそうならなかったのはなぜか。
簡単である。日本では、「超越的な神」を信仰する宗教が、政権と結びついたことが殆どないからである。
日本の神道では天皇家を天照大御神の子孫としている。つまり、天皇こそが、日本の宗教的権威の頂点といえるだろう。そして、神道の神の概念は、決して超越的ではない。八百万の神というように、日本人はあらゆる自然現象に神格を見出した。これらはあきらかに、「祀られる神」である。
日本において国家宗教になりうるのは唯一仏教勢力であり、仏教の僧において最も政治の中枢に近づいたのは奈良時代の道鏡であるが、770年の称徳天皇崩御とともにその野望は潰えた。以降、仏教は日本の中央貴族の信仰は集めてこそいたが、政権の中枢に神道を代表する天皇がいる以上、これを超えて権力を行使することは不可能であった。
平安時代の末から仏教勢力は独自の軍事力をもち、僧兵といった階級の人間もあらわれ、たびたび強訴を起こして政権に対抗したが、貴族に代わって台頭した武士を凌駕することはついぞできなかった。武士は禅宗などを庇護こそしたが、やはりその統治体系は天皇あってこそのものであった。
戦国期には一向宗が加賀を占拠し、一時的に自治をおこなったりもしたが、結局上杉謙信と、その後に続いた自称『第六天魔王』織田信長に比叡山もろとも撃破・破壊・殲滅され、政治勢力としての仏教はほぼ壊滅した。時を前後して日本に上陸を試みたキリスト教勢力も、江戸幕府によって弾圧され、長崎のごくわずかな信徒を残して消滅。そのまま明治維新を迎えることになる。
明治維新後は、信仰の自由は認められたものの、依然として天皇が1945年まで政治の中枢にあり、そして令和になった今でも天皇家は存続している。
こうしてみると、日本人が無宗教的なのは全くおかしなことではなく、歴史の必然の帰結ではないかと私には思えるのである。